日記
労働で精神的に疲労してしまった。後輩に関しては上司も大変な懸念を表明しており、「(後輩)さんは一切の悪気なく常に他人の神経を逆なでするか意図を勘違いさせる言動ができてしまう人」と言っていたが私もそう思う。「してしまう」ではなく「できてしまう」が正しい。皮肉ではなく、あの才能を使いこなせない私(たち)が悪い。
フォロワーが個人サイトを作っていてかっこよかった。素直にすげー。別のフォロワーがスペースをやっていたらしい。アーカイブが残るようなので後で聴こうかな。今までちゃんと聞いたスペース、絶版企画が爆炎上してたときの「SFマガジンの今後を考える会」みたいなやつだけなので未だに空気感を知らない。
劇場版レヴュースタァライトが一部劇場で再上映されるらしく、東北でもやらないかな……と思っている。
インターネット
サイゼリヤに来たら、番号を記入した紙を渡す形式になっていた。ライス大盛りに一つの記号列が割り当てられている。ひどいと思った。世界は本当に寂しいところになった。これでいいと本気で思っているんですか、本当のところはどうなんですか、と叫びたくなった。
— 千葉雅也『現代思想入門』発売 (@masayachiba) 2022年7月5日
番号で注文することが経営的に実質効率化になってないとかどうでもいいんですよ。もっとみんな、食べ物が番号で取り扱われることのおぞましさというものに向き合ってほしい。
— 千葉雅也『現代思想入門』発売 (@masayachiba) 2022年7月5日
なんかRT/いいね数の割にはTLでめちゃくちゃ物議を醸していた。SNS関係なく以前から見る議論だけど、なんかみんな妙に攻撃的で疲れてしまった。
「食べ物を数字で管理することのおぞましさに気づけ!」にも「数字の注文が便利なんだから人間的かどうかなんてどうでもいいじゃん」にも反対なんだけど、SNS上で具体的に語ったところで読み手が勝手にどちらかに吸収するのがわかるので脳内か別の場所で整理することにする
— ugogg (@ugogg) 2022年7月5日
なんというか、食事/接客といった人間的な活動が資本家や社会によって手順化/作業化されてしまうことの不気味さ、そしてそれに市井の人々が慣れてしまうことの危機感という感覚自体は理解も共感もするんだけど、正直なところ人類がその歴史をかけて好き勝手生命を冒涜する手段として発展させてきた「料理」という行為の不気味さ/不条理さ/グロテスクさとうまーくバランスが取れていてちょうどいいね!という気持ちも同じくらいあった。
資本主義が能率のために精神的豊かさを排除していくのと、「人間的」とされる営みが精神的豊かさのために意味不明な工程を多数生み出すうえにその工程の意義を「それが人間的、精神的な豊かさだからだ」と循環させてしまうのと、それぞれ陰と陽のおぞましさ(どっちが陰でどっちが陽とかはないです)があるのでちょうど打ち消し合っていいんじゃないでしょうか。
自分が日々感じている感情自体も正しくは不気味だと思うべきで、「サイゼ便利になったな~」も不気味だし「個人店は接客が丁寧、料理も盛り付けがきれいだし美味しいなあ」も不気味なのである。こう並べてみるとなんとなく後者のほうがやや正しい気もするけど、個人的な感覚でいうと「人間の文化的営みから生まれた感覚だから良いのだ」と「大企業が知恵と金を投じて作った仕組みだから良いのだ」の間に大して差はないように思える。生産者のデカさをなにか正当性の論拠らしくしているという意味では。
上で書いた「バランスが取れていてちょうどいい」と言うのはつまり世界から人間性が減退し、今まで軽んじられた合理性の地位が向上し、文明の特色がゼロに近づいていくことなのだから人間性を尊重する視座に立てば良くないのだろうが、まあ私はそこにいる人じゃないので、と世界の有り様について死ぬほど無関心であることを痛感してしまう。なんというか、人類に対する愛情とか希望とか、有りたい姿を目指す道程を踏みしめる強さとか、そういったところが私とこの千葉氏では徹底的に違う。
なんか話が逸れてきたな……。極端に言うと、文化も企業もでかい面して人類史にのさばってるうえ、その中で我々がそれなりに暮らせてしまっているというのがなんか嫌なのである。