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初めて短歌をちゃんと読んだ(大森静佳『ヘクタール』感想)

いまいち歌集の書評における引用ルールがわからないので、個人的良識の範囲内で書籍からいくつかの歌を引用していますが、権利者からのお怒りや指示があれば一旦非公開にして引用箇所をすべて消してから再公開します。

はじめに

詩歌がまったくわからないまま大人になった。
学生時代に国語の授業で多少は触れたがその当時から和歌はまったく分からなかったし、現代の俳句や川柳、短歌もその時は「そう、サラダ記念日なんですね。爆心地でマラソンをしているんですね――それで、それがどうかしたんですか」というカスみたいな感想しか持てなかった。
学校の授業を除くと、まともに触れた詩歌といえば草野心平の詩集と尾崎放哉の歌集だけ。
前者は意味も良さもほとんど分からず(よくわからないながらインパクトだけが記憶に残り、逆に手放せずにいる)、後者は自由律の作品こそたまに読むが、活動初期の定型律作品はやっぱりよくわからない。

そんな中、Twitter(現X)のフォロワーが紹介していたある短歌の面白さに衝撃を受け、その作品が収録されているのがこの本だというので買ってみた。2022年末、人生初の短歌集購入である。

※紙の書籍のリンクを貼りたいのだがなぜか電子書籍しかでてこない

短歌の読書体験がなさすぎて読むのに1年、このブログを書くのに1年以上(ほぼ放置期間だが)かかってしまったが、結論から言うと結構楽しかった。それはそれとして「やっぱりよーわからん」という感覚も残っている。
人生初の経験で色々と思うことがあったので、ブログにざっくりと書いておこうと思った。

 

読む前に思ったこと

価格が税込み2,300円と、人文書か文章量の多いハードカバー小説(京極夏彦の『厭な小説』とか)くらいする。最初は正直「文字数当たりに換算すると更にヤベ~」と思った。
ただ、とにかく装丁がかっこいい。美しく箔押しされた気品のあるフォントの「ヘクタール」というタイトル、そのタイトルに反してめちゃくちゃ接写でミリメートルの世界を写した表紙。カバー下と帯で統一された心地よい紙の質感。まあこういうところも含めてなら2,300円でも良いかな、と思った。

 

雑感(読みながら思ったこと)

まずめくってみる。1ページに2~3首。2,000円以上したのにすぐ読み終わりそうだとその瞬間までは思っていたが、上述の通り全くの杞憂であり誤算だった。

そして最初に目に入った、一首目がこちら。

はなびらは光の領土と思いつつ奪いたし目を閉じれば奪う

そうか?でもたしかに色は光の反射だという科学的事実に基づけば、色彩の印象が強いはなびらは土属性以上に光属性かもしれない。それを、奪いたいのだという。そして目を閉じることで奪うのだという。なんか、こう、まぶたに残像が残った状態を「光を遮断したままはなびらを見ている」と捉えているのか?面白い考え方という気もするし、でも、なんというか、こう、もっと詩歌って"エモく""直感的に""味わう(教科書にもそう書いてあった気がする)"もの、みたいなイメージがあり、表現されている現象を分析的に読み解いて、納得と不服の間を面白がるような読み方をして良いのか――などと思っていたのだが、あるのかもわからない「正しい読み方」は諦めて、まずは自分なりに一文一文を味わおうと思った。
ただ、姿勢が固まったのは良いものの、とにかく読み進められない。良さがわかる歌はしみじみとひたり感想の言語化に取り組みたいし、分からない歌は飛ばさずにわかるまで考えたい。でも考えても考えてもわからない。わからない歌については正直「必ず負ける根競べ」を強いられて凄く疲れた。

あと、数作おきにタイトルがついているのが不思議だった。「短歌にタイトルとかあるのか」と思った。共通のモチーフということっぽいのだが。
読めば意味がわかるのだろうか、と思って読み進めたが、結論から言うと意味がわかるときもあればわからないときもあった。第3章の「木乃伊 1.展覧会」などは何の体験を元に詠んだ作品群か一目瞭然だけど、必ずしもすべてがそうではない。他者にはわかりようがない個人的な体験に基づいた題じゃないか?というものも多い。一方で同じく第3章の「雲雀」は当時の時事ネタの要素がかなり強く、あの頃のTVの感じを覚えている人にとってはかなり明確に元ネタを明示している。
第2章は川上未映子『夏物語』と源氏物語にインスパイアされた作品を収録、らしい。なんとなく、そういう二次創作めいた文芸作品はインターネットか即売会のものという意識(偏見)があり面食らった。そして私は両作品を全く知らないことを恥じた。前者はともかく後者は学生時代にある程度学んだはずなのに。なんか、桐壷?とかいたよな。女の人だっけ?というレベル。自分が恥ずかしい。

 

良かった歌

自分なりに面白がれた作品をいくつか。もっとたくさんあるんだけど、特に個人的に良さを記述しやすかったものを選んだ。

さびしさの単位はいまもヘクタール葱あおあおと風に吹かれて

表題作と言っていいのか? 「寂しさ」というと確かに広い場所にポツンと感があるし、一方で他者の作為から解き放たれて草木を揺らす風に吹かれる心地よさもあるし――ということでなんとなく読むと共感性の高い歌だけど、「ヘクタール」「葱」の使い方にビビった。
寂しい≒広いで「ヘクタール」、ヘクタールといえば農地の単位ってことで「葱」と、それぞれは自然な連想で出せそうだが、それを三段論法的につなげてしまい、他者からは突飛に見えることで内省的側面を示唆(「いまも」とあるし、原風景的なニュアンスもあると思う。実家の畑とか)するとともに、その飛躍の飛距離が巡り巡って歌が描く広さを補強しているようにも感じる。
前半の時点で「『ヘクタール』という言葉選びは面白いけど、要するに心象風景あるあるやね」と思った直後の『葱』でその「舐め」をぶっ飛ばされるマゾヒスティックな痛快さがあった。

ふとぶとと水を束ねて曳き落とす秋の滝、その青い握力

買うきっかけとなった作品。この文章を見た瞬間、まるで自分が今まで見ていた滝の勢いの正体を教えられた気すらした。紅葉の山の中で突如現れる、言ってしまえば所詮「水落下地点」にすぎない滝になぜ我々は雄大さ、痛快さ、怖さを感じるのか。それは滝というものが実はものすごく大きな「水属性の巨腕」とでも言うべきものが上部の水を引っ掴んで、エイヤと下に引っ張り、滝壺に叩きつける営みなのだ。そう見ると滝というのはかなり超常的だし、外連味があるし、暴力的だ。
「秋の滝」を想像すると季節のチョイスに納得感がある。夏は水しぶきの爽やかさ、冬は厳かな冷たさが強くなりどうしても水の印象ばかりが目に付くが、秋になり周辺環境が穏やかになり、滝がいい意味で山に埋もれて調和してくれる時期になると、現象として見やすくなるというか、滝を滝たらしめる大いなる力をやっと感じられる気がする。
「秋の滝、」でふう、と息をついてから改めて結ぶ「青い握力」が良い。感慨深さが現れている気がする。

産めば歌も変わるよと言いしひとびとをわれはゆるさず陶器のごとく

本作の印象として、心情や思考が世界と突如つながったり、作者の内心がそのまま主観的な言葉で表されたり(特に愛情表現)といった最小と最大の振れ幅の大きさを個人的には感じる――もしかすると本作に限らず短歌の多くがそうなのかもしれないが――のだが、時折、加害(有形暴力や個人間のものに限らない)ヘの強い怒りを表明した歌がある。その中で具体性と優れた比喩で印象に残った作品。
「産めば歌も変わるよ」、読めば読むほど、どんな選択をした人に対しても最悪の一言。夫婦同姓制度の現状なども重ねて、社会には(=私を含む多くの人々の意識には)「妻になる/子を産む/キャリアを選ぶ」といった、女性の精神的・肉体的・社会的に大きな変化(する/させる)の重みを軽視する一方で、その変化が取り返しのつかない呪いや、逆にすべてが丸く収まる万能薬であるかのような幻想を求める矛盾した二面性があるようにも思える(男性ももちろん別の軽視&幻想を背負わされてはいるのだが、ここで書くことではない)。出産や育児に対する無理解や生存バイアスということのもっと前段階の、女性の変化への「舐め」がこういった一言につながっているのではないか。
そして、辛い、苦しい、ふざけるな、そういった心情描写ではなく「陶器のごとく」ゆるさないという宣言で締めくくられている。磁器と違ってざらついている陶器を選ぶ点に荒々しい力強さを見れば良いのか、磁器より割れやすいであろう陶器の脆さを見れば良いのか、あるいはどちらもか。どちらにしろ、私はこの歌にすぐに返せる言葉をまだ持っていない。

釘のようにわたしはきみに突き刺さる錆びたらもっと気持ちいいのに

愛の歌が多い本作は、対話用でない愛の言葉を突き詰めた短文で表すという性質上か、他人が読むとギョッとするような表現が用いられる歌がいくつかあり、その中で気に入っている一作。
人の心に深く入ることを「刺さる」と表現することは普通だし、そこからの連想で「釘」も、ちょっとヤンデレっぽい(ただ、コミュニケーションのためにアウトプットを整理しない愛情なんて他者から見たら多少病的で当然でしょう、という気持ちもあり)がまあ納得感がある。やはり強烈なのが後半。錆びた釘はざらついて骨肉と離れがたくなり、血と合わせて醜悪な色合いになっている。痛々しい描写なのだが、なぜか「もっと気持ちいい」という気持ちも理解できる気がしてくる。また、錆びるほどの長い時間を経たい、というニュアンスもあるのかもしれない。破傷風まで連想すべきかどうかはわからなかった。

録音に拍手は残るもういないひとたちの手の熱いさざなみ

古いライブ盤を聴いているとき、音楽と同じくらい、時にはそれ以上に観客に心が向くことがある。
例えば、James Brownのライブ盤『Live At The Apollo』はとにかく女性客が叫びまくる。10分以上にわたって元カノへの思いをぶちまける「Lost Someone」は、JBが今で言う「ファンサ」をしているらしく、歌詞の"I love you"のたびに卒倒せんばかりの絶叫が聞こえる。中盤ではJBもその熱狂に応えて歌詞を歌わずコール&レスポンスに終止する異様な雰囲気へ。それまでの「逆・ガチ恋口上」にメロメロになっていたはずが、いつの間にか共犯関係に移行したファンの高揚感たるや如何ほどだったろう。そのファンたちは今どうしているだろう。亡くなった人たちも多かろうが、まだ生きている彼女たちはあの頃の熱狂をどう覚えているのだろう。昨日のことのように思い出せる人もいれば、忘れた人、忘れたい人もいるだろう。半世紀を経て、現在の彼女らが持つJBへの情熱の総量は減少している可能性が十分に高いにも関わらず、音源から聞こえる絶叫はあのときのまま落ち着くことがないというのはやはり面白いものだ。
――という個人的な関心が先にあり、それと近いことを書いているなあ、と思って好きだ、という話です。
ライブ盤の性質を述べているにすぎない冒頭から、作者の興奮が込められたかのような「熱いさざなみ」までの間で、ちょうどコンサートの拍手が一呼吸置いてからワッと広がる様とリンクしているかのように、歌のボルテージが上がっているのが良い。

 

まとめ

意外と楽しめた自分に驚いた、というのが大きい。短歌という手法について、昔は「しらね~~~~~~~~~~」という気持ちが大きかったはずが、むしろ真摯に向き合えた気がする(そして滅茶苦茶疲れた)。面白さを言語化できる作品の多さも意外だった。感性を根底としつつ表現の選択と構成は極めてロジカルに考えられているような気もする。
一方で、身もふたもない言い方をすれば「そんな個人的なことを書かれても……」みたいに思ってしまう瞬間もあった。In Flamesスウェーデンのメタルバンド。歌詞が内省的で、音がデカく、曲が良く、ギターがかっこいい)の歌詞でさえピンと来ていないので、最低限に研ぎ澄まされた文字数でしかも他者に開かれていないとなると、なかなかとっかかりがつかめなかった。自分にわずかに備わってはいるらしい詩歌筋(造語)みたいなものを鍛えればここら辺も楽しめるようになるのか。

まだ気軽に楽しめるまでには至っていないが、この楽しみを敬遠するのは惜しいと思えるようになった。本書の再読も含め、ちょいちょい詩歌を読むようにしようと思う。