ノイズ/ノイズグラインドアイドルSayaAkasegawaさんの作品に3曲目のヴォイスで客演しました。詳細はリンク先からクレジット参照。多彩なオタクノイズグラインドが聴けます。
Akasegawa氏はアートプロジェクト「绘画班」のドローイングとか直球ハーシュノイズとか、ハイペースでいろいろ面白いことをやっているのでディスコグラフィもぜひチェックを。おすすめはこのEP。アートワーク可愛いね……
CPAPのゴムマスク部分が壊れたので交換。快適性が段違いで5時間睡眠でも快眠。逆に、よく昨日までそれなりに寝れていたものだと自分に感心する。
選挙が終わった。全くもって望ましい結果ではないが、どうせあと何十年も生きていくんだから「自分の属するコミュニティを起点に社会を良くする努力を続けていくぞ」という根気と実践こそ一番大事ではないか。怨嗟も諦めもいらず、ただ思想と表明と行動にこそ意味がある。そういう意味で、怨嗟や諦めでなく怒りや俯瞰ならばそれは意味がある。
服にあまり興味がないのでコーディネートが確立されておらず、それが逆に「休日になると統一感のないクローゼットの前で頭を捻る」という習慣を生み出してしまっている。バンドTシャツの収集を除いてミニマルファッションにできないか試行錯誤している。自分が寒さに強いことを思い出したので水曜はヒートテック&スウェットシャツ&カーゴだけで一日過ごしてみたが、なんとかなるものだ。ただユニクロとか言うクソ企業の服はあまり増やしたくないなあ。服屋と資本主義が嫌いだと、もしかしてノームコアって大変なのか。
漫画『殺し屋1』を読了する。なんて不気味な漫画なんだ。思うがままに変態と暴力が描かれまくっているようでいて、作中でも言及されるように全てはジジイによる「必然性無し」の理知的な筋書きであるという矛盾がおぞましい。それでいてジジイも「匿名の誰かに全部言っちゃう」という射精の代替行為だけは望んでしまう、脚本家と出歯亀だけでは我慢できない虚しさよ。
ミーム化しているコマも多いが、ケツに銃を撃つシーンはその後の下血のねずみ花火みたいなシーンのほうが強烈だし、「待っていた…オマエみたいな変態を」はむしろ前の「愛がない故に美しい…美しさがない故に愛がある!まさに…聖人だけが持てる矛盾!」のほうが作品の魅力を物語っているように思える。ミームというのは強烈な個性以上に汎用性が大事なんだなあと思った。
幼少期、弟が私に「母が高級菓子を買ってきたからみんなで食べよう」と嘘をつく悪戯をしたとき、母が凄まじい剣幕で「落ち込ませるためだけに存在しない食べ物で人を釣るのは最も恥ずべき行いだ」と怒鳴り、当時は若干引いたのだが、今は私の食に関する倫理観のかなり根本のところに根付いている
— ugogg (@ugogg) 2026年2月12日
この昔話が、今でも私の中でかなり根本的な倫理観を構成する要素になっている。「人に嘘を付く」でも「人をからかう」でも無く、「食事があると騙り人を落ち込ませること」というピンポイントにとてつもない悪を感じる人間になった。
一時期話題になった「日本におけるムスリムと土葬」の問題で思い出すことがある。
2011年3月11日の震災(当時震源地近くに在住)の後、遺体の処理が追いつかず、一旦体育館に安置→2週間くらい(うろ覚え)経ってから地区で最も大きな公園を簡易土葬場にして埋葬→しばらくしてから掘り返して火葬という方法が取られた。多くの知っている人や知らない人が大勢溺れ死んでかつてキャッチボールをしていた場所に埋められたという事実に、当時凄まじいショックを受けた。ただそのショックは、大量死や土葬の是非に対してというものよりはもっと個人的な、「俺たちは死んだら当然に火葬されるだろう」という暗黙のうちにアイデンティティになっていた認識が「なんか水がいっぱい来た」という単純な事実で破壊されたという事実に対してだったように思う。
ムスリムにとっての土葬の意味合いはわからない。しかし、あの頃の衝撃を思い返すと「思ってた葬られ方と違う」が心につける傷はあまりに大きいと思う。近年の騒動は災害も関係ないわけだから非常時のなし崩し感すら無い。日本における土葬文化の人々の日常には、恒常的にあの裏切りがまとい続けるのだろうか。
その地域の事情や衛生的課題を無視して強硬的に土葬を導入するのは、いくら多様性のまちづくりと言っても非現実的で、慎重な議論と交渉が必要な物事だろうというリアルの事情は踏まえたうえで、「葬られ方」ってすごく大事な話ですよ、と思っている。
ass_atteの新作、前作よりもメタルリフの使い方が良い。
スロバキア王道グラインドコアAbortionの編集盤、どの曲も短いながらちょっとした曲展開やワンアイデア、軽いユーモアが程よいフックになっておりおすすめ。