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20210904日記+簡易音楽レビュー

文章

定型詩

短歌や俳句を読み取る能力がない。厳密には、読み取る能力が養われるほど作品を読めていない。手始めに寺山修司の作品でも買おうかと思ったけれど、さっぱり良さがわからないものにポンポンと金を出す勇気が出ない。ブックオフで探してみようかな。

「いい文章だな」と思うことはあるけれど、定形を守る、あるいは意図的に崩すことが文章にどんな豊かさをもたらしているのかを全く感じ取れていないので「言葉足らずだなあ/あと10字くらい削ってもよかろうに」などと失礼なことを思うことが多い。

なぜ日記にこんなことを書くかというと、今日は『尾崎放哉句集』を読み返していたから。彼も初期作のほとんどは定形俳句なので、句集には定型/自由律が両方収められているが、面白みを感じるのは圧倒的に自由律の作品。特に好きな句の一つがこれ。

口あけぬ蜆死んでゐる

ところが、こちらは彼の師である荻原井泉水が大幅に修正したもので、本来は下記のとおりであったらしい。

口あけぬ蜆淋しや

すごい変え方じゃないですか。特に感じるのが二つ。

1.元の五・七調を大胆に崩した。「口あけぬ」の五でこっちがちょっとリズムに乗った途端ほっぽりだされる印象になったことで「いま目の前にあるそのもの」それだけになっている。

2.そもそもこれは尾崎放哉晩年の句(おそらく)である。本人が自身の病死を目前に控えながらも「淋しや」と詠んだ句を「死んでゐる」に変えろと言う。理屈はわかる。「味噌汁見たら開いてない貝があって『あっ、死だ』と思ったんだろう。そう書けよ」ということなのかもしれない。だとして、病床に臥せっている本人にこれを突きつけるのはすごい。

この、優しさを決定的に欠いた強い信頼関係があってこそ、「咳を――」に代表される寂しげな作品群が生まれたのかもしれない、と思った。

などとそれっぽいことを言っているが、定形を崩すことの意味も全くわかってないので、自由律の作品についても純粋な一行詩としてしか読めていない。

 

小説

ちんたらと中島敦の短編を読んでいる。

今『山月記』を読み直すとかなり李徴に感情移入してしまい、少し泣いた。授業で読んだときは当事者意識がかなり希薄だったのだと気づいた。

『弟子』を読んで、なにかBL的なものを感じた。正しさや徳を求める孔子と、その実践者たる孔子を人生の大黒柱にする子路の対比が、なんだか叶わぬ恋のメタファーになっているように見えてしまった。「鳳鳥至らず――」のところなんか、二人がとてつもなく深い人間愛を持っており師弟愛も存在しながらも決定的に断絶していることを示す名シーンだと思う。現代人が読むからこそ感じ取るニュアンスなのだろうか。そういった部分を抜きにしても『李陵』に近い壮絶な名作だと思った。

 

音楽

Meshuggah - Destroy Erase Improve

95年2nd。他の作品は2008年作6thのObzenしか持っていない。

Obzenに比べると、まだ幾分スラッシュメタルの延長線上にあると感じられる。ただ異常なリズム感覚はこの頃から健在。スラッシュメタル感覚が残っている時期だからこその楽曲として好きなのはFuture Breed MachineとVanished、今の音楽性に近いという意味で好きなのはSublevelsあたりか。日本盤ボートラはがなるような歌メロやPantera風のリフが妙にキャッチーで楽しい。

www.youtube.com

 

にせんねんもんだい - NISENNENMONDAI LIVE!!!

2011年のライブ盤。ベスト盤的選曲で楽しい。ライブでは定番のikkyokume中盤アレンジは何回聴いても壮大で最高。初期をのぞいてミニマルミュージックのバンドとして知られているけど、同じ"ミニマル"でも、NEU!的なmirrorballと、Silver Appleを単純化したようなappointmentでニュアンスが随分異なることを1枚で味わえて楽しい。

www.youtube.com

↑書いてないけど、別ライブの「Mirrorball」です。